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Channel: 磐座亭(いわくらてい)の毎日ナンダカナーブログ
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愚者の賦

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      愚者の賦
 
   ここ数日、理研のとある女性研究者のことでいろいろ騒がれています。この一連の騒動を通し、磐座亭はある随筆を想起せざるを得ませんでした。万葉学者伊藤博先生の「愚者の賦―『萬葉集釋注』―の公刊を終えて」です。
 
 少々長い引用になりますが、一部を略してここに掲載させていただきます。
  なお、『萬葉集釋注』は『万葉集』の注釈書で、伊藤先生畢生の大著です。
 
―前略―
    『萬葉集釋注』全十一冊は、このように、歌の表現をいとおしみつつ、不遇な歌々にも光をあてるようにして書かれた。筆者は、『萬葉集』に限らず、ある対象の本質を捉えるためには、対象を隣人と見て「仲間入りする」態度(いわゆる解釈学的方法)を身に付けることによって、対象の「底を読む」ことが最も肝要であるという持論を抱くに至っている。世には、対象を巨人として「仰ぎ見る」態度 (いわゆる実証的方法)とか、対象を矮人(わいじん)として 「切り取る」態度 (いわゆる評論的方法)とかも存するけれども、 さような姿勢をも考慮しつつ対象に「仲間入りする」のが、やはり最も自然な姿勢だと信ぜられる。対象はそれぞれ固有な生を持って呼吸しているからである。先刻の「君がやどにし」の解釈は、その態度の一つの現われで、『釋注』には、全体にわたって、多かれ少なかれこの姿勢が貫かれているはずである。
 
 筆者がかような持論に達し得たのは『萬葉集注釋』の著者沢瀉久孝先生の薫陶による。今から五十年前、昭和二十四年(一九四九)四月、筆者は、萬葉学者京都大学教授沢瀉久孝博士の門に入った。教授は、その年、「柿本人麻呂と女性」と題する講義を開設、羽織袴の出で立ちのもと、二百人を超す学生の前に現われた。 「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌二首并せて短歌」と題する歌(2二〇七~二一二)の解読を通して人麻呂と女性について講ずるのが目的であったらしく、講義はまずもって題詞の解説から始まった。
 
 「柿本」の「柿」には「◆」と記す写本がある。が、何々本のこの伝えは「◇」の俗字で「柿」とは異なる樹木である(引用者注、◆◇ともに異体字で、ワープロにない活字)。「本」は「下」と伝えるかくかくの写本があるけれども、集中しかじかの用例によれば、「下」はシタ、「本」はモトと訓むべく、「下」は誤写と認められる。続く「朝臣」がすんで、次に「人麻呂」。これが長かった。「人麻呂」と記す写本と「人麿」と記す写本とあり、後者の方が多い。何々本には甲、何々本には乙と、写本の名が経文のごとく次々と指摘され、上代人の記名の詳細な例証に及んで、結局「人麻呂」が正しいということになる。学生はいつしか半分以下に減った。
 
   次は、「泣血哀慟」に及んでいよいよ歌に入ると、誰もが思った。だが、まだあった。「妻」は単数か複数か、「死ぬ」「後」とはどういうことか。「泣血哀慟」はいうに及ばず、「作る」「二首」「并せて短歌」と解説は事細かに続く。当時、京都大学は二学期制であったが、題詞の解読だけで一学期がほぼ終わってしまった。九月末、二学期に入った時には、   学生は専攻生を中心とする四十名ほどに限られてしまった。しかし、それを気にする気配は微塵もない。
 
 無味乾燥これに過ぎたるはなし。専攻学生たちすらこう言い合った。けれども、この授業を通して、学生たちは、一様に、文学研究は一にも二にも言葉であり、一字一句もゆるがせにしてはならぬことを身に沁みて学んだ。伊藤博(いとうはく)の萬葉学もここに始まり、やがて「仲間入り」して「底を読む」持論を得、このたびの『萬葉集釋注』全十一冊に及ぶ(後一年を経て「原文篇」と「索引篇」の二篇を加えて全十三冊とした)。

―中略―
   少年(引用者注、伊藤博先生のこと)の青年期は世を挙げて軍人が囃(もてはや)される時代であった。だが、軍人への願望をあれやこれや断たれてしまったために、少年はその後文学派であり続け、昭和二十四年、沢瀉門下に加わることになる。萬葉研究史一千余年。個人による本格的な注釈は、元禄の学僧契沖の『萬葉代匠記』を筆頭に、昭和の沢瀉久孝『萬葉集注釋』まで、およそ十種。それぞれ生涯をかけた偉大な業績である。『萬葉集釋注』が、これら先学の騏尾(きび)に付することがもしできるとすれば、萬葉正統の学の厳しい錬磨に浴し、学統の一継承者となり得た幸運のもと、萬葉びとに「仲間入り」し、その「底を読む」ことを常に心がけた点に求められよう。もとより、書き足りなかったり書き忘れたり、あるいは書き誤ったりした点も少なくないであろう。ただ、本書が、明確な成立論を背骨に、歌々の配列の様相をも掘り下げて萬葉びとの心の像に迫ろうとした注釈であることだけはまちがいないと思う。
 
   ならば、かような注釈を伊藤博という人間がどうして書き上げることができたのか。それは、伊藤博が生まれついてこの方、“愚拙の者”だったからである。 伊藤博が“愚拙の者”そのものにおいてひたすら師の学を学び取ったからである。 筆者は、小学校一年生頃までろくに物が言えなかった。その上、左右、表裏、東西南北というようなことは、いかにしても理解できなかった。要するに、万端にわたって訥 (とつ)の極なる者だったのである。天性の訥なる者、もはやそれに徹するほかに生きるすべはない。よって、書斎をつとに「愚拙庵」と名づけ、本を読み文を書くことで愚拙の者に成り切ろうと心がけて来た。この主義は七十三歳の現在も変わることがない。

―中略―
 
 巻第十九の家持詠(四一六〇)に「俗中」と表記する語がある。集中ここのみ。漢語だが、歌の脈から見て仏典にもあるはずと、手許の関係文献に当たった。 繰れども繰れども出て来ない。 十五日目の夜明け、これが最後という一冊の中にあった。そのさまを見ていた妻は、一句を詠んだ。「新涼や仏語俗中現はるる」。
 
 かかる用例探しは学生時代からずっと続いている。卒業論文に際しては、一夏図書館に通い、漢籍という漢籍に当たって「相聞」の語を探した。こういう時に役に立ったのが、少年時代、栗拾い、茸取り、蕗抜き等のほか、雑木林の中にタラの芽を探し求めた経験であった。その物の像を想ってひたすら追い求めていると、爽雑物、同色の物の中からその物だけが浮き立って見えてくるのである。
 
 『萬葉集釋注』は、かかる少年の相そのままに、一本の道を歩み来った一人の人間の、手作りの営みによって書かれた。昭和十四年中学一年の時からは六十年の歳月を数える。言い換えれば、『釋注』は六十年間“一本の道”しか歩めなかった者の書である。「愚者の賦」――『萬葉集釋注』全十一冊には、この四字が最もよく似合う。
                             (「青春と読書」集英社、平成十一年四月号)
                                   (単行本『愚者の賦―万葉閑話―』伊藤博著に所載)
 
 
 むろん、理系と文系は同じではないでしょう。しかし、学問とは、研究に対する姿勢とは、本来こうしたものだと思うのです。女性研究者はどこかでそれを見失ってしまったといわざるをえません。
 

 1年ぶりのブログです。不定期になりますが、少しずつ復活しようと思っています。(^^)

  多くのブロ友様にご心配をおかけしました。この場を借りてお詫びします。
  m(__)m
 

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